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北摂ロマネスク

エイト、音楽、こっそり日常。

【WANONANO】さよなら、いとしいあなたへ【motto】

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私には愛している靴がある。

 

十代の頃に出会ってから三十代になった今まで、履き潰したものも含めるとその数は30足はくだらないと思われる。仕事を始めてからも、友人たちと遊びに行く時も、恋人に会う時も、なんだかんだで私は水色や白の箱を開けたり閉めたりして一種の満足感を得ていた。
それは私の、靴たちへの愛情表現でもあった。
 
 
そのスニーカーを脱いだら死ぬのかと言わんばかりに、赤いニューバランスばかり履いていた学生時代、ふと立ち寄った心斎橋の商店街で真新しいシューズショップを見つけた。今から13、4年程前の話だ。母の影響で卑弥呼の心斎橋店には何度か訪れたことがあったが、その真新しいショップは卑弥呼からほど近い所にひっそり、しかしキラキラとしたものを隠しきれないような佇まいで鎮座していた。
 
 
私は昔からピンクが好きだ。ショッキングなものはともかく、カラーバリエーションがあればますピンクに目が行く。紫&青色eighterになってからはこの二色を手に取りがちだが、それでも好みには忠実であるし、ピンクがかった紫をどうしても探してしまう。
 
忘れもしない一足目は、そんな大好きなピンクのパンプスであった。結果的にその後十年以上も形や色を変えてデザインを受け継いでいったそのシリーズは、シャーリングとギャザーがとてもフェミニンで、中敷が小花柄のとても可愛らしいデザインだった。
そしてなにより、とても履きやすかった。甲高の私の足にもきちんとフィットした。自分の足に合う靴を作っているブランドを見つけておくと、靴探しはぐんと楽になる。もともと、あまり履かないとはいえ卑弥呼の靴は合っていた。しかし靴自体にこだわりがなく、履ければ何でもいいという考えだった十代の自分にとって、WANONANOのそのパンプスは新しい世界への引き出しの取っ手であった。
 
そしてそれを機に、私はWANONANOの靴に目がなくなった。
「他人と違う」個性的なデザインでありながら、きちんと質の良い革や布地を使って作られていたこのブランドの靴は、とても輝いて見えた。
卑弥呼」に対しての「漢委奴國」を取り上げた名前も好きだった。
わりと個性派ぞろいの高校から至極個性派ぞろいの大学に進学していたので、「自分らしさ」を仕立てるのにこんなに良いアイテムは他に類を見なかった。
 
 
 
私には愛している鞄がある。
WANONANOの出会いと時を同じくして心斎橋、こちらは南船場ではあったが、「motto」という革製品の鞄屋が出来た。motto南船場本店である。四葉のクローバーがシグネチャーの、ゴリゴリの革ではなくプレーンで手触りの良い革製品が多く、合わせる布地もキャンバスなどカジュアルな鞄が目をひくブランドだった。㈱エリットという名古屋の会社が本社で、ここから数年間は上り調子で人気が出ていった。年始の福袋は早朝から南船場路面店に長い列が出来たし、数年後には阪神西宮に支店もでき、デパートにも卸されるようになった。婦人雑貨売り場でクローバーのついた財布を目にしたことがある方もきっと多くおられるだろう。
私はここの鞄にも目がなかった。何年かしてデザイナーや商品コンセプトが変わるまでは、クローバーの鞄をとっかえひっかえしていた。それくらい好きだった。
 
 
親友たちがヴィトンやプラダを手に取り始めていた頃、私はWANONANOの靴を履き、mottoの鞄を選んだ。財布も、大好きだったバーバリーを振ってmottoを使い続けた。またか、と思われるかもしれないが、素晴らしいピンクベージュのラインがあったのだ。
 
まだ十代だった当初、自分は30、40になっても年甲斐もなくこれらを使い続けているのだろうかと少し不安もあったが、全くの杞憂だったと今なら笑い飛ばせる。まだまだこの少し変わったアイテムたちを手放す気にはならない。年相応かどうかは自分が決める。
どうせ身に着けるなら自分が満足するものでなければ勿体ないと思うようになった。
足は二本しか、体は一つしかない。
一日も無駄にはできないのだ。
 
 
 
 
 
私には、愛していた靴があった。
 
愛していた鞄が、財布があった。
 
 
何よりも近くで、私が一番自由だった時を見守ってくれた戦友であった。
本当に、好きだった。
今までどうもありがとう。お疲れさまでした。
 
 
 
卑弥呼内でWANONANOの一部デザインは引き継がれています。
私の記念すべき一足目のデザインも、卑弥呼として形を変え継続中。
きっといつか、また復活してくれると信じて。